「と」?

 ハイデガー存在と時間」下を(斜め)読み終わった。三分の一も理解できた(ら大したものだ)とは言わないが、結局のところ、数百ページもの文言を費やして、序説で提示された命題(哲学の定義)に帰着する。

<哲学は、現存在の解釈学から出発する普遍的な現象学存在論であって、この解釈学は、実存の分析論として、一切の哲学的問いの導きの糸の末端を、この問いがそこから跳びだし、またそこへ跳ね帰ってゆく、その場所で、固く結んでいるのです。> (下P.244[436])

 つまりは、「実存」とはなんぞや? (世界の内に投げ出され、本来的であったり非本来的であったりする)「実践的な主体の在り方」とはどのようなもの・ことか?ということ。次に、「ヒューマニズム書簡」を読んでみようと思っている。
 下巻を通しては、第七十六節「歴史学の起源」後半、ニーチェの「反時代的考察」に言及した部分以降(P.172[396])が目に止まった。訳注から引用する。

28 ニーチェの『生に対する歴史の利害』は、歴史研究は生に力を与えるものであるべきはずのものが、いたずらに客観的を求めてむしろ生を毒するものであることを論じたもの。すなわち歴史を(1)記念碑的歴史,(2)古物的歴史,(3)批判的歴史と区別し、これらは生に奉仕するものであるけれども、過去を現在の刺激として捉えれば(1)の歴史となり、過去を過去として回顧し保存する趣味から眺めれば(2)となり、過去を未来に役立てようとすれば(3)となると考えられる。(P.265)

 平行して摘み読みしていたジジェクの「身体なき器官」の「生成と歴史」から、関連がありそうな気がする部分を引用してみる。

こうして生成は、厳密なまでに、反覆概念と相関的である。ドゥルーズ固有のパラドックスは、<新たなるもの>の出現に対置されるどころか、真に<新たな>何ものかは反覆をかいしてのみ出現可能であるという点にこそ潜んでいる。(・・・)
「太陽の下では新しいものなど何も存在しない」とは、反覆の運動とのもっとも強烈な対照のもとにある言い種である。こうして反覆は、<新たなるもの>の出現(のさまざまな形式のうちの一つであるだけに留まらない──<新たなるもの>は反覆をかいしてのみ出現することができるのである。こうしたパラドックスを理解する鍵は、言うまでもなく、ドゥルーズが<潜勢的なこと>と<現勢的なこと>との差異(それは<精神>と<字義>との差異としても規定されうるだろう──当然のことだが)として指し示した当のものである。(P.34)

 <精神>と<字義>。このように並べてみると、ニーチェハイデガードゥルーズには、歴史に関して共通な観点があるように思える。