現代の時間論とは?

 スピノザの言葉を孫引きして、「概ねそのように考えている」とは、我ながら、噴飯もの以外の何ものでもない。俺が思うのは、聖書に限らず、あらゆる文章・表現は、時代の制約下にあり、例外はない、ということだ。
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 数日前に、「世の中には実際には存在しないにも関わらず、存在するかのように機能している物事や仕組みが数多存在している。」と書いた。神を巡る仕組みもそうしたものの一つなのだろうと漠然と思っている。言い換えるなら、「それ」が存在する/しないに関わらず、「それ」を巡る仕組み(社会構造や派生した事物)は、確かに存在する。そのことを以て、「それ」(自体)が、存在すると言えるのか、どうなのか? 事物の存在の在り方を分けて考える必要がある。
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 無神論サルトルの「存在と無」(の緒論)では、「現代思想は、存在するものを現れの連鎖に、還元することによって、いちじるしい進歩をとげた。」「力はその諸効果の総体なのである。」「ひとたびわれわれが、ニーチェのいわゆる《背後世界の錯覚》から脱却して、現れの背後にある存在をもはや信じないのなら、現れは、逆に、充実した確実性となる。」「可能態 la puisance と現実態 l'acte の二元性も、消えてなくなる。すべてのものは現実態においてある。」「現象的存在は、これらの顕現のかたく結ばれた連鎖以外の何ものでもない。」(PP.11-14) と、歯切れが良い(多分、良すぎるのだろう)。
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 ハイデガーの「存在と時間」を初めて読み始めた。どうにも歯切れが良くない。「記述的現象学」の「記述とは、[・・・]証明済みでない規定はすべて差し控えることを意味する。」のだそうな。ただ、序説まで読んだ感想としては、サルトルの「存在と無」よりも読みやすそうだ。
 過日、斜め読みした、ドゥルーズの「ベルクソンの哲学」にある時間論は、デンパのように思える。[・・・・・・]今、真に問うべき(問われるべき)問題は、現代に通用する時間論なのではないだろうか。
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「追記」
 覚え書きとして、ソシュールの解説本によると、能記(シニフィアン:或る言葉・記号)と所記(シニフィエ:或る概念・観念)の関係が恣意的・慣習的なだけではなく、「能記も所記も純粋に関係的ないし差異的な存在体」とある。