「元祖《オッカムの剃刀》」

 関連して、雑誌「哲学11 オッカム 現代を闢(ひら)ける」(1990)が手元にあるので少し引用する。清水哲郎「元祖《オッカムの剃刀》」より抽出してして引用。

現在「オッカムの剃刀」の名の下に流布しています製品は、オッカム自身が使用したいわば「元祖オッカムの剃刀」とは似て非なる類似品であり、その効能および使用法はこれと相当異なるからです。
.
1 「どのような道具か」についての諸見解
  節約の原則
「確かに必要であるという場合以外は、説明や原因の数を増やしてはならない」
「より少ない原理でより多くの現象を説明できる理論の方がよりよい」
.
  存在者を切り捨てる剃刀?
「必然性(必要)なしに存在を増やしてはならない」
これは特にオッカムの唯名論と結び付けられて理解され、この原則によって普遍的存在者が切り捨てられたのだ、というように受け取られてきたようです。これがオッカムには見出せない定式であることは研究者によって以前から指摘されてきました(中略)。
.
  オッカム自身が使った「剃刀」をめぐる問題
「オッカム自身が用いた『剃刀』は、それ自体としてみれば形而上学的原理であるよりはむしろ方法論的原則である(稲垣良典)」
.
2 方法論としての<元祖オッカムの剃刀
  「必然性がないかぎり」切る
(元祖オッカムの剃刀=R)
 R:必然性がない限り、複数の事物を立ててはならない
 O:神の全能をもってしても変えられないことが必然的なことである
 C:神には矛盾を含まない限り全てのことができる
  <神の全能>によって切る
 すなわち、オッカムの原則Rは、Oを使って言い替えると、
 RO:神の全能をもってしてもなしに済ませることができないもののみを立てよ
.
  通常の<節約の原則>も切り捨てる
 DP:神は多くの場合、より少ないものを介して為し得ることを、より多くのものを介して為す
「神は、第二原因を媒介してもたらし得る結果ならば何であれ、独力で直接にもたらし得る」(OT I,605.21)
 神の全能を勘定に入れるこう言った考え方からすれば、DPを次のように変形することもできるでしょう:
「神はより少ないものを介して現に為すことを、より多くのものを介して為すこともできる」
.
  記述に矛盾が生じない限り切る
 つぎに、オッカムは「神の全能をもってすれば可能かどうか」をどのように判別するかといいますと、ここで、既に指摘したC(神の絶対的能力の定義)が使われます。すなわち、R=ROはCを使って次のように言い換えることができます:
 RC:それなしには矛盾が生じてしまうもののみを立てよ
.
 3 論証と経験
 R’:より少ないものにより生じ得ることが、より多くのものにより生じるのは無駄だ」(OT V,268.5)
.
  明証的に認識されなければ切る
 RS「自明なことどもから発する確実な推論または確実な経験がそれに導くのでない限りは、いかなるものをも自然的である結果を生じるために必然であるとすべきでない」(OT V,268.12)
.
  教会の権威ゆえに切らないでおく
「ある場合には、より少ない奇跡によって生じ得るにもかかわらず、より多くの奇跡を立てるべきであり、かつ、それを神はよみしたもう」(OT IX,450.41)
.
 4 探求の道具としての剃刀
  明証的認識の原因を剃刀を使って探求する
「明証知とは(1)ある真なる命題の認識であって、(2)命題を構成する諸項辞の把握のみから十分に結果するもののことである」(OT,I,5.18)
.
  非実在個体の直覚知を剃刀を使って付け加える
 さて、その上で「偶然真理についての明証知の原因」として定義されるのが「直覚知」です。では、このような直覚知の記述ないし定義を分析するならば、何が原因として立てられるでしょうか。「ものが存在していること」は必要でしょうか。いいえ、確かに「この白がある」という明証的認識の原因となる直覚知が成立するためには、(1)により白個体の存在が論理的に言って必要でしょう。直覚知の原因としてものを立てるのは、このように限定された場合の話です。この限定された場合についてさらに言えば、実在するもの=個体は(1)の故に原因として要求されますが、「感覚」を原因として立てる理由は論理的に言ってどこにも見出されません。そこでオッカムは感覚の役割を切り捨てるのです。また、一般的に言えば「直覚知」の定義からは、対応するものの存在の必要性も出てきません。そこでオッカムは「直接知の成立条件としてものの存在を立てること」を拒否するのです──「ものの存在」が剃刀によって切り捨てたことになります。これは言い替えれば、ものが存在していなくても、その存在していないものについての直覚知は成立可能だとすること、つまり、「非実在個体の直覚知の可能性を立てたということです──こうして、ここでは通常の理解からすれば「余計なもの」を剃刀を使って付け加えたことになります。
.
5 オッカム的方法と経験論
オッカムは「経験論の先駆」と同じほどの重みで「大陸理性論の先駆」とも言えるでしょう(デカルト的探求との類似性には既に言及しました)。となるとまた、どちらとも違っているとも言えるのですから、その後展開されないままに失われた、したがって可能性を秘めた方法であると言って、両者から差異化する記述を試みるのがむしろ有効かもしれません。

.
「追記」
覚え書きとして。
トマス・アクィナス(1225+2〜1274)
ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(1266〜1308)
イリアム・オッカム(1286頃〜1349頃)