「視覚の近接性」と「声の近接性」

 錯視の例にあるように、視覚は多重の錯覚を伴って周囲の情報を取り込んでいる。にも関わらず、周囲の特定の対象との近接性(光速は有限だが、音速や脳神経の伝達速度に比べれば無視できる程に速い。)により、視覚の情報に疑念を抱くことは希だ。(※脚注)

.
 ところが、電器店などで無数のビデオカメラのひとつが、TV画面に映し出す「誰か」の歩く姿には違和感を覚えることがある。勿論、そこに映し出されるのは、エレファントマンではない。草臥れたバリバリのオッサンである。(腹の脂肪をもう少しどうにかすれば、まだ飲み屋の姉ちゃんには優しくして貰えることもあるだろう。これは希望的憶測ではある。)裸眼で己の目を直接見ることは出来ないと言うが、それを不思議に思う必要もない。
.
 テキストエディターでこうして文字を打っているこの「誰か」が、私であることを私はけして疑わない。無駄と分かっている懐疑はしない主義だ。言葉のというより声の近接性。何某が言ったように、己の声の近接性にも多重の錯覚が伴う。この二つの近接性(「視覚の近接性」と「声の近接性」)の交叉する点が人格なのだろう。実社会おいて、或る人格の連続性や単独性は、社会的な要因要請を根拠とするのではあるまいか。
.
 物事をあまりに複雑な仕組みで考え言い表す趣味は、私にはない。ネット上では、基本的に文字だけの世界だ。誰も何も隠すことは出来ない。現れたものが全てなのだ。だが、ディスプレーに現れる文字への「視覚の近接性」とそれを読む「声の近接性」によって、時に奇妙な錯覚が起こることがある。誰の言葉だったか「虚実の狭間に嵌り込んで痙攣している哀れな」事態である。私は、誰も哀れむことはないが、そうならぬように心がけている。
.
 付言するなら、私の念頭にある「奇妙な錯覚」というのは、例えば、ネット一般との関わりにおける書き手と読み手相互の非対称性を見失ってしまうこと。
.