けして出版されることのない小説の序文として

 ここに掲示するつもりで、かつて書いた詩のようなものや散文を選別しマージしててみると1000行程になった。全て(あらかじめ挫折を前提とした)ある愛の詩であったのだ。不出来であったり、誰かの猿真似であったり、酔っ払いの戯言と入所中のヤクザの内縁の妻だったらしい美人ママのいた閑そうなパブ・スナックでの精神分析ごっことか、身の上相談にかこつけた口説き文句とか、いずれにせよ、「夏服を着た女たち」に捧げる千夜一夜的なショートコントだった訳だ。
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 昨今、「スカートの中はカラッポ」なのに知性も教養もあるはずの手鏡教授が、カーテンの裏側(それとも、ぷよぷよの尻に食い込む白いパンティか)を肉眼で確認しようと欲したそうだ。いわば俺は、かつて、仮想空間(サイバースペース)を映すディスプレーの裏側をみようと欲したのだった。結末は、惨憺たるものだった。ネットに延々と恋文をアップする野郎に興味を持つのは、ちんけな魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類と相場は決まっている。
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 マーチン・スコセッシ監督の映画「The Last Temptation of Christ」で、あどけない少女の姿をした堕天使の台詞を覚えているだろうか? マグダラのマリアの死を嘆くウィレム・デフォー演じるイエスに少女は言う。
「世の中に女性は一人しかいない、様々な顔を持っているだけ」
"There is only one woman in the world, with different faces."
しがない大工の息子の俺が、到達した諦念もまた似たようなものだった。
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 今日は、何故か、映画「ピアノレッスン」のテーマ曲が延々と頭の中で流れている。「最後の誘惑」でユダを演じた俳優ハーベイ・カイテルつながりだろう。ふと、言語の持つ暴力的な自動性について思いを馳せる。例えば、一人称単数を、俺にするか、私、僕、あたし、おいら、我が輩、朕にするかだけで、その後の文章の展開を制限してしまう。
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 昭和初期までの文人の中には、ペンを片手に原稿用紙に向かい、時に、目に涙を浮かべ嗚咽し、時に、泣き叫びながら文を記した強者(つわもの)もいたと聞く。今日日、そんなはた迷惑な奴はいない。みんなお利口に小賢しくなった。ロリコンの小学校の教諭までもが、恐るべき子供たちに向かって、自らを先生と呼び、同僚に対しても互いに先生と呼び合うおバカさ加減を知らぬ者はいないだろう。
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欲望という名の電車は脱線しようとも暴走する。酔いが急に醒めてきた。